中世の巨大用水路「女堀」

更新日:2021年09月10日

1 謎の用水路

女堀は、前橋市上泉町の桃ノ木川もしくは藤沢川から取水し、伊勢崎市田部井町(旧西国定)までの、中世初期に開削された総延長約13キロメートル、上幅約27メートル、最大掘削深5メートルにも及ぶ長大なかんがい用水路跡です。用水路の片側もしくは両側には、堀を掘った土が搬出され、土手のようになっています。

女堀は文献に記録が一切ないことから謎とされ、女堀という名称から「推古天皇や尼将軍北条政子が掘った」「女性が一夜にして簪(かんざし)で掘った」という伝説が残されています。こうした伝説は女堀の謎を象徴していると言え、昭和50年代に行われた圃場整備事業に伴う発掘調査が行われるまでは、その実像は明らかではありませんでした。

女堀の経路を地図上に示した図

女堀経路図

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2 赤堀花しょうぶ園は女堀の一部だった

昭和50年代の発掘調査結果を受け、女堀は昭和58年に伊勢崎市1箇所(赤堀地区)、前橋市5箇所が国指定史跡となり、伊勢崎市の赤堀地区では、史跡の保護・活用を目的に平成元年から花しょうぶを植栽し、平成5年に国指定史跡女堀赤堀花しょうぶ園として開園しています。

史跡女堀の俯瞰写真

史跡女堀の俯瞰写真

花しょうぶが満開の史跡女堀

花しょうぶが満開の史跡女堀

史跡女堀のコナラ

史跡女堀のコナラ群

史跡女堀に咲く満開の桜

史跡女堀の満開桜

南北に延びる史跡女堀の全体図

史跡女堀全体図

史跡女堀は昭和58年に国指定史跡となった後、平成9年、平成28年に追加指定され、現在史跡面積は32,092.13平方メートル(上図赤線の範囲)あります。

上図の水色の範囲は、湧水によりできた谷で、青線で囲んだ女堀はその谷とX字状に交差しています。上図の赤色の範囲は女堀を掘った土が搬出された掘削排土で、谷の地形に応じて掘った土が搬出されています。

花しょうぶは国指定以前に水田であった環境を活用して、女堀と谷に植栽しています。

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3 女堀はいつ造られた?

女堀はいつ掘られたのか文献に記録がありません。しかし、女堀を掘った土(掘削排土)の下から、天仁元年(1108)に噴火した浅間山の軽石層である浅間Bテフラや、大治3年(1128?)の浅間粕川テフラが確認されました。この軽石層の上には自然に堆積した土が確認でき、さらにその上に女堀を掘った土が置かれているため、浅間山が噴火しやや時間が経過した12世紀中頃(中世初期)に、女堀が掘削されたと発掘調査の成果から考えられています。

埋まった堀跡(中央)と掘削排土(奥)の写真

埋まった堀跡(中央)と掘削排土(奥)

女堀の掘削排土下の浅間山軽石

女堀の掘削排土下の浅間山軽石

4 誰が女堀を掘ったのか

女堀が開削された中世初期には、白河上皇の院政が始まるとともに、貴族や武士たちは経済的な基盤を求めて荘園(しょうえん)や公領の開発に目を向け、特に上野国(群馬県)は荘園や御厨(みくりや)が次々と立荘されていきます。荘園は天皇家、貴族、武士によって開発された私的な領地、御厨は伊勢神宮の領地のことです。

伊勢崎市域は、古代佐位郡を荘園化した淵名荘(ふちなのしょう)が1130年以降に成立します。淵名荘は、鳥羽上皇の正妻待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)が大治5年(1130)に建立した仁和寺法金剛院(にんなじほうこんごういん)の御願寺領(ごがんじりょう)として成立し、淵名氏が在地領主となり立荘されたと考えられます。

淵名荘の開発のために、かんがい用水路である女堀開削が計画されたのでしょう。

中世初期の荘園と現在の伊勢崎市の図

中世初期の荘園と現在の伊勢崎市

5 女堀の目的は何か

大間々扇状地に立地する淵名荘は、古くから市天然記念物あまが池や男井戸(おいど)などの湧水によって水田が営まれていました。女堀は水田を営む十分な用水を確保するため、湧水かんがい地域の淵名荘に大規模な河川からの水を送ることを目的に、開削されたのだと考えられます。言い換えれば、女堀は淵名荘の開発を進めるための大きなプロジェクトだったと言えるでしょう。

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6 史跡女堀発掘調査

女堀の掘削―段堀工法と小間割―

右の文章で説明している女堀掘削工程の模式図

女堀掘削工程の模式図(平凡社『よみがえる中世5』を転載・加筆

女堀の堀幅は、28メートルに設定され、掘削深が最大4.5メートルにも及び、段堀(だんぼり)工法によって数段階に分けて掘り下げを行いながら作業を進めたようです、また掘り下げには作業範囲を区画【小間割(こまわり)】して掘削を行っている痕跡が確認できます。

女堀の掘削―工区境―

右の文章で説明している女堀の工区境と排水経路

女堀の工区境と排水経路

伊勢崎市下触町の史跡女堀は、自然の谷とX字状に交差しています。谷と女堀の交点を境に、女堀底面の工事の進行状況には差があり、谷を挟んだ女堀の北側と南側では工区が異なると考えられ、谷は工区境であったと考えられます。

谷と交差する南側の女堀は底面が平坦に掘下げられている一方で、北側は排水溝を設けて掘削を進めていました。北側の底面は南側よりも1メートル前後高いことから、南側の底面に合わせるように、北側も掘り進めていたのでしょう。

女堀の掘削 掘削排土

高さ数メートルにおよぶ女堀掘削排土断面

女堀掘削排土断面

女堀を掘削した土は、谷と交差する地形に応じ、平坦な箇所では両岸に、傾斜地では低地側へ土手状に搬出されています。下層には掘削した表土、上層には粘土が搬出され、掘削排土(くっさくはいど)を粘土で覆うことによって、安定させる役割があったと考えられます。また掘削排土の下からは天仁(てんにん)元年(1108)の浅間Bテフラや大治3年(1128)?の浅間粕川テフラが検出され、テフラ下降後の12世紀中紀頃に女堀の掘削が行われたと考えられます。

元の地形から女堀を掘った土をのせて現在の地形が完成されるまでを説明した図

女堀は未完成だった

女堀は発掘調査の結果、未完成であることがわかりました。堀底は工事の途中で止まり、水が流れた痕跡はありません。なぜ未完成なのか、その答えも記録には残されていません。測量などの技術的あるいは組織的な理由による失敗説、淵名氏の没落といった政治的要因による中止説が考えられています。

底面が平坦な女堀の底面

底面が平坦な女堀の底面

排水溝が確認された女堀底面

排水溝が確認された女堀底面

7 未完成の女堀から読み解くメッセージ

女堀は中世初期に開削されたかんがい用水路とされるだけでなく、当時の土木技術や工事を知ることのできる全国的にも極めて特異な遺跡です。また伊勢崎市内の荘園の開発を目的とした大規模開発事業であり、新たな時代の幕開けを認識できる重要な遺跡です。当時の人々が目指したかんがい用水路の「夢」は完成することなく、いつしか「謎」の大規模かんがい用水路となりましたが、女堀から読み解いたメッセージは、伊勢崎市の歴史遺産ではないでしょうか。

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