田島弥平旧宅

更新日:2024年08月13日

田島弥平旧宅の概要

田島弥平旧宅主屋全景の写真

田島弥平旧宅主屋全景(南東から)

田島弥平旧宅は、田島弥平(文政5年(1822年)生、明治31年(1898年)没)による、近代養蚕法「清涼育(せいりょういく)」の開発と、ヤグラ(越屋根、天窓ともいう)付き総二階建ての近代養蚕農家建築の原点となった建物です。伊勢崎市境島村地区は、江戸時代中期から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)製造の盛んな地域で、田島弥平家も有力な蚕種製造農家でした。 蚕の飼育は難しく、年によって収量の差が大きかったため、弥平は各地の養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功しました。 

名称

 田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)

指定年月日

 平成24年9月19日

指定区分

 国指定史跡

所在地

 伊勢崎市境島村甲2243番地 外

清涼育を大成

主屋櫓内部の写真

主屋櫓内部

 田島弥平は「清涼育」に適した蚕室の工夫を行い、文久3年(1863年)には棟上に換気設備(ヤグラ)を備えた瓦屋根総二階建ての住居兼蚕室を建築しました。桁行き約25.38メートル、梁間約9.4メートルの大規模な建物で、1階を住居、2階を蚕室としました。 弥平は「清涼育」の普及のため明治5年(1872年)に『養蚕新論』を著し、ヤグラを付けた養蚕農家建築は、その後の近代養蚕農家建築の標準となりました。 

微粒子病を研究

田島弥平肖像画の写真

田島弥平肖像画

 幕末の横浜開港後、島村の蚕種製造農家は、当時微粒子病で養蚕に壊滅的な被害が出ていたヨーロッパ向けの蚕種輸出に積極的に取り組みました。

 微粒子病が克服され、横浜からの蚕種輸出が振るわなくなると、島村では明治12年(1879年)から明治15年(1882年)の間、蚕種をイタリアへ輸送し現地で直接販売する直輸出を行いました。弥平はこの第1回の渡航メンバーの一人です。

 最後の直輸出を担当した田島啓太郎がイタリアから顕微鏡を伝えると、弥平は顕微鏡を用いて蚕の病気の検査・研究を行いました。後に、住居兼蚕室の2階北隅には顕微鏡室が増築されています。
 明治初期、生糸増産のために先進地の視察を行う際には、器械製糸は富岡製糸場に、養蚕技術は田島弥平に学ぶのがモデルコースでした。また、富岡製糸場の外国種などの試験飼育の要請に応え、繭品種の改良や統一運動に協力しました。

田島弥平旧宅を国史跡に指定

 境島村の「田島弥平旧宅」は、平成24年9月19日の官報告示により、国史跡に指定されました。

 旧宅には、文久3年(1863年)建築の主屋が現存するとともに、当時の蚕室建物跡、桑場、蚕種保管の種蔵などの遺構が残ります。田島弥平の業績は高く評価することができ、近代養蚕業の発展を知る上で重要な場として国史跡に指定されました。

田島弥平旧宅が世界遺産に登録

 富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴の4つの資産で構成する「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、平成26年6月25日、世界遺産に登録されました。

世界遺産ロゴマーク

地図情報

関連リンク

田島弥平旧宅に関するパンフレットは下記リンクのページからダウンロードできます。

この記事に関するお問い合わせ先

文化財保護課
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